家族の入院中、病室をいやしてくれた1曲は、ジョアンとアストラッド、2人が交互に歌う『イパネマの娘』でした。
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『イパネマの娘』
(ポルトガル語:"Garota de Ipanema"、英語:"The Girl from Ipanema")
アストラッド・ジルベルトが軽やかに歌う英語版が有名だけど、
この曲の誕生秘話を聞くたびに胸がいたむのは、私だけだろうか。
幼い頃からショーロやサンバなど、ブラジルの音楽を聴いて育った青年ジョアン・ジルベルト(João Gilberto)。
彼は、来る日も来る日も、ギターを奏でる手を休めず、新しい音楽を模索していた。この日々が、後にパーカッションのような演奏とささやくように歌うスタイルを確立し、「ボサノバ」という1ジャンルを築くこととなる。
ジョアンは、後にピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビン(Antônio
Carlos Jobim)、詩人のヴィニシウス・ヂ・モラエス(Vinicius
de Moraes)と出会う。3人は、ブラジル・リオデジャネイロのイパネマ海岸でよく一緒に飲み、音楽への熱い思いを語り合った。そんなとき、生まれた曲が『イパネマの娘』だった。
その後、ジョアンはアントニオ・カルロス・ジョビンと共にアメリカに渡る。ジャズサックス奏者のスタン・ゲッツ(Stan Getz)とのレコーディングを行うためだ。
レコーディング曲の中に、もちろん『イパネマの娘』もあった。
そのときに起きたことが偶然なのか必然なのか、それはわからない。
ジョアンのポルトガル語でレコーディングされた『イパネマの娘』には、英語の訳詞もあった。それを、ジョアンの奥方であったアストラッドが、英語版をさらりと歌ってみた。ジョアンは、英語が話せなかったからだ。ちょっとした余興で録ったはずのテイクが、後にシングルカットの『イパネマの娘』として、世に出る。そして、大ヒットとなる。1960年代の出来事だ。
『イパネマの娘』は、ジョアンがポルトガル語で歌うことになっていた曲だ。
でも、アストラッドが英語で歌ったから、”ボサノバ”というジャンルが、これだけ多くの人の間に広がったのはまぎれもない事実だ。
ジョアンは、英語版『イパネマの娘』を、どう感じていたのだろう。
屈辱的な思いだったのだろうか。とはいえ、大ヒットによって、ボサノバの創始者であるジョアンの地位がゆるぎないものになったのも事実だ。
ジョアンが今、どういう思いでいるのか。
それはわからない。私にはわからない。
私は、ポルトガル語を話せない。
でも、ジョアンが歌うポルトガル語の響きと訳を読むと、いつも切なくて苦しくて、たまらない気持ちになる。
恋って、なんてはかなくて、なんて孤独なんだろう。美というものは、なんて神聖なものだんだろう……と。
私とボサノバとの出会いは、アストラッドの英語版。彼女の淡々とした歌声は、いつも私の生活の片隅にあった。
それでも、『イパネマの娘』で、ジョアン歌うポルトガル語に心つかまれてから、時折複雑な気持ちを抱くようになった。ポルトガル語で歌う彼の”Garota de Ipanema"には、そんなほろ苦さがある。
ジョアンが私に教えてくれたのは、音楽の素晴らしさだけじゃなかった。
「人生」や「運命」といった、自分たちの手には負えないものの存在も、教えてくれた
。
ジョアン・ジルベルトに会いたいと、いつからか思うようになった。
私が探し続けている問いの答えを、もしからしたら、彼は持っているかもしれない。
(2014年、ジョアン・ジルベルトの83歳の誕生日に寄せた記事より改稿)
(2014年、ジョアン・ジルベルトの83歳の誕生日に寄せた記事より改稿)
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2人の歌声は、心と体が弱っているときに、すうっと体にしみ込んでいくスープのよう。
そう、どちらか1人ではだめなのです。
さらに言えば、アントニオ・カルロス・ジョビンのピアノ、スタン・ゲッツのサックスなどすべての奏者の音、それを支えたスタッフ、作詞に携わったヴィニシウス・ヂ・モラエスら、関わったすべての人たちがあって、初めて『イパネマの娘』は伝説の名曲となり得たのだと思うのです。
<本ブログ内リンク>
『ひなぎく』その2 —ひなぎくとバラの花ー
(アストラッド・ジルベルトの紹介をしています)
http://filmsandmusiconmymind.blogspot.jp/2015/10/sedmikrasky2.html