2019年12月29日日曜日

アニエス・ヴァルダをもっと知るための3本の映画

  アニエス・ヴァルダ(Agnès Varda)……彼女の他界の知らせを聞いたのは、平成があと1ヶ月ほどで終わろうとしている頃でした。
  彼女の作品が上映されている中で年を越せることが、私の小さな喜びです。

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アニエス・ヴァルダをもっと知るための3本の映画
『アニエスによるヴァルダ』
『ラ・ポワント・クールト』
『ダゲール街の人々』

(c) 1994 agnès varda et enfants

  香水の瓶、メトロノーム、アコーディオン、奇術師……ヴァルダの生活圏であるモンパルナスの一角を撮影したドキュメンタリー『ダゲール街の人々』には、観光客に媚びない、普段使いのパリが映し出される。結婚とは、仕事とは、生きていくとはどういうことなのか?哲学的な問いの答えがダゲール街という小宇宙に漂う。彼女がなぜ地元での撮影に臨んだのか、そこには母として生きるための、ヴァルダの苦渋の選択があった。その裏話が『アニエスによるヴァルダ』で語られる。数々の試練をチャンスにかえて、ヴァルダはヴァルダらしい芸術を生み出してきた。彼女のカメラの向こうには、いつだって日常を懸命に生きる市井の人々の姿がある。「撮る対象に愛着を抱くと、その映像は平凡ではなくなるの」というこの言葉に、彼女の映画への思いが凝縮されている。

(c) 1994 AGNES VARDA ET ENFANTS

  長編映画のデビュー作となった『ラ・ポワント・クールト』は、アニエス・ヴァルダの母の出身地であり、十代のヴァルダが数年間暮らした村で撮影されている。夫婦とは何か、男女の愛は形を変えて成熟を続けるのか、その問いの答えは、2人の発する台詞ではなく、映像の中にある。村を横切る猫、漁で得た魚たち、天に召される幼いこどもの命……という媚薬をまいたら、映像はこんなにも温かみを帯びるものなのだろうか。スクリーン越しにヴァルダの愛が胸に飛び込んできた瞬間、私たちは間違いなく幸福な気持ちになれる。そして、映画にはこんなにも大きな力があるのだと実感する。ハート形のジャガイモも、子供達が集う愛猫の墓も、非暴力を貫く若者のアートも、温かくて優しくて、涙が出そうになる。

(c) 2019 Cine Tamaris – Arte France – HBB26 – Scarlett Production – MK2 films



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『顔たち、ところどころ』(Visages Villages

『幸福(しあわせ)』(Le Bonheur

<公式サイト>
アニエス・ヴァルダをもっと知るための3本の映画

2019年11月4日月曜日

『ばるぼら』(英題:Tezuka’s Barbara)  

113日、文化の日は、マンガの神様・手塚治虫の誕生日でもあります。
この日、第32回東京国際映画祭のコンペティション作品の1つとして、
手塚治虫原作の『ばるぼら』が上映されました。

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32回東京国際映画祭レポート その1
『ばるぼら』(英題:Tezuka’s Barbara)  
原作:手塚治虫
監督:手塚眞

「命」というのは、何と尊く、何と素晴らしいものだろう!
 手塚マンガは、子供だった頃の私にそのことを教えてくれた。
 そして、大人になった今、そのことをあらためて思い返す。
 1989年2月。マンガの神様・手塚治虫が天へ召されたのは、昭和から平成に変わったちょうどその頃。市民葬で献花をしたとき、鼻をすすっていたのを今でも覚えている。同時に、自分の心が 悲しみだけではない、別の何かに彩られていることを感じた。"別の何か"が何だったのかわからないまま時が過ぎたけれど、『ばるぼら』の映画化が、その答えを教えてくれたような気がする。
「命」はつながっているのだ。大好きだった手塚治虫は、 “手塚眞へとバトンが手渡され、その芸術の輝きはつながっていく。だから悲しくはなかったんだ、と。『火の鳥 黎明編』で登場人物のひとり、ウズメが言う。夫を殺した権力者に「女には武器がある。私のお腹にはあの人の子供がいる」と言って立ち去っていく。そのシーンを思い出した。

  手塚眞監督が『ばるぼら』に出会ったのは10歳の頃。大人向けのコミック誌向けに連載されていたこのマンガは、小学生の眞少年にとって『鉄腕アトム』や『ブラックジャック』以上のインパクトを与えた。そして、映像の世界でキャリアを積み、選んだ題材がこの作品だった。自分の体の中に流れている手塚治虫のDNA……自分の体を流れる血潮、父から受け継いだ血の騒ぐまま、自然に撮り終えた本作には、手塚マンガ独特の空気がすみずみにまで漂う。昭和の芸術が、令和になって不死鳥のようによみがえったかのように。
 デジタル化が進み、人との交流も機械をを介して行うことが当たり前の時代となった。「エロティックという言葉をネガティブに捉える人もいらっしゃいますが、僕にとっては、エロティックは人と人とが交流することなんです。こういう時代だからこそ、肉体の触れ合いを見せる映画を撮りたかった」。戦争という時代をくぐりぬけた後、手塚治虫はエロティシズムを"自由"の証のひとつとして描いた。そして手塚眞監督が描く21世紀のエロティシズムは、枯渇した私たちの心を潤してくれる"癒し"を意味するのかもしれない。


第32回東京国際映画祭で観客の質問に答える手塚眞監督
(2019年11月3日撮影)



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この映画のラストシーンに、手塚治虫少年が登場します。
31回東京国際映画祭 速報その『漫画誕生』(The Manga Master)

<公式サイト>
32回東京国際映画祭

2019年10月12日土曜日

『ジョアン・ジルベルトを探して』(原題:Where Are You, Joao Gilberto?)その2

 今、超大型の台風が首都圏を通り過ぎています。
 どうか、被害が少しでも小さいものでありますよう。
 これ以上、命を落とす人がいませんよう。

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『ジョアン・ジルベルトを探して』(原題:Where Are You, Joao Gilberto?)その2
〜ジョルジュ・ガショ監督と会う〜

 音楽は人を救うことができるのだろうか?
ずっとこのことについて考えていた。映画や音楽は人の心を救うことができるのだろうかと。
答えはイエスであり、ノーでもある。人にもよる。救いとは何かという定義によっても変わる。


©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018


 この映画の語り手として登場するマーク・フィッシャー(Marc Fischer) は、友人の家で耳にしたジョアン・ジルベルトの曲に心奪われる。このドイツ出身の青年がどんな悩みを抱え、何を求めていたのかはわからない。しかし、ジョアン本人に会おうとブラジルを実際に訪れるほどに、ボサノバは彼にとって心の支えであったようだ。
 マークは何度もジョアンに会おうと試みる。近しい人を訪ね、入念に準備をした。しかし、ジョアンは謎をまとい、つかもうとするとその手をすり抜けた。ジョアンはまるでブラジルの空気の中にふわふわと漂っているような、亡霊のような存在だった。ジョアンと会うことがかなわなかったマークは、この体験を1冊の本にまとめた。そして著書が発売される1週間前に、自らその短い生涯を閉じた。2011年、マークが40歳のことだった。
 映画では、マークの語りが途中からジョルジュ・ガショ監督に変わる。まるでリレーのように、マークが落としたバトンをガショ監督が拾い、ジョアン・ジルベルトという幻を探す旅を続けるのだ。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

「ボサノバは、ジョアンの音楽は、マークを救うことができたのでしょうか?」
その問いに、ガショ監督はこう答えた。
「ボサノバは彼を救わなかったと思います」。
  ドイツ的な合理主義者だったマークがボサノバと出会ったことによって、彼の中にあった何かが崩壊してしまったのではないかと、ガショ監督は語る。
「彼の40年の人生は、決して安定したものではなかった。ヘミングウェイにも惹かれていましたし、うつの傾向もあったらしく、自殺願望は以前からあったようです」
  ジョアンに出会えなかったことが、彼の自殺とどう結びつくのか、あるいは無関係なのか、それはわからない。しかし、ボサノバに心奪われた一人の青年は、サウダージという、曖昧でとらえどころのない言葉に癒されたのではなく、欲しいものをつかまえることができないという苦しみを心に刻んでしまったのはまぎれもない事実だ。

  音楽は、人を救うことができないのだろうか?
  これだけはわかる。
  ボサノバはマークを救うことができなかったかもしれない。しかし、この映画によって、マークは救われたのではないだろうか。
  ガショ監督は、取材時に現地の人々から警告されたという。
「ジョアンには近づきすぎるな。マーク・フィッシャーと同じ道を辿ってしまわないように」
  映画の中で、ガショ監督は途中からマークになりかわり、ジョアンを探す旅に出る。マークとの境目が曖昧になっていくにつれ、ガショ監督の不安も高まっていったという。
  1本の映画を撮るのに、監督はどれだけの勇気と覚悟をするのだろう。ガショ監督もその勇気と覚悟を携えた英雄の一人だった。映画という魔方陣の中で、自らの魂を奪われることなく帰ってくることができたのだから。
  “サウダージのゆらめきを映像にとどめ、現実世界に帰ってきたガショ監督。私は、この映画が無事に完成したことが、マークの魂を救ったのではないかと思わずにいられない。
  ドイツ語で語るガショ監督に尋ねた。サウダージを表現するのにふさわしいドイツ語はありますか?と。
  サウダージ(saudade)……ジョルジュ・ガショ監督にとって、それは“sehnsucht (憧れ)” であり、 “wendern(さまよい歩く)に等しい感覚だそうだ。


ジョルジュ・ガショ監督(2019年8月7日撮影)


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 20191010日の『世界メンタルヘルスデー』のテーマは自殺予防でした。
「死にたい」と書き込む人たち、どうか死なないでください。
気の利いた言葉でなくてごめんなさい。
生きていてください。


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『ジョアン・ジルベルトを探して』 その1

ジョアン・ジルベルトへの思い その1

ジョアン・ジルベルト(João Gilberto)への思い  その2

『イパネマの娘』(Garota de Ipanema

<公式サイト>

『ジョアン・ジルベルトを探して』

配給:ミモザフィルムズ
全国順次公開中

2019年10月11日金曜日

『第三夫人と髪飾り』(原題:The Third Wife)


 今日、1011日は『国際ガールズ・デー』です。
 地球上の少しでも多くの女の子が、幸せな人生を送れますように。

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『第三夫人と髪飾り』(原題:The Third Wife


 奇岩、湿原、鍾乳石、洞窟、山の合間を流れる川−−映画の舞台となったベトナムのチャンアンは、世界複合遺産としても知られる秘境だ。このチャンアンに、14歳の少女が、富豪の3番目の夫人としてこの地に嫁いでくる。ベトナムで育ちニューヨーク大学で学んだアッシュ・メイフェア監督は、曾祖母の人生にショックを受け、彼女の実体験をもとに脚本を書き上げた。しなやかで官能的、日本とは異なる東洋の神秘の香りが漂う映像に、「女として生まれる」ことの哀しみが漂う。
  それでも、と思う。
  長く続いた女性たちの哀しみは、女性映画監督として活躍する曾孫によってその連鎖を断ち切ることができたのではないかと。
  今は21世紀。女性であることを思い切り謳歌できる時代となってほしい。


         © copyright Mayfair Pictures.



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女性であることの喜びを教えてくれる映画
『彼は秘密の女ともだち』(UNE NOUVELLE AMIE

<公式サイト>

『第三夫人と髪飾り』

10/11(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー

2019年8月29日木曜日

『ジョアン・ジルベルトを探して』(Where Are You, Joao Gilberto?)


「ジョアンほどの人たらしはいないわ。私もだまされたの」
映画の中で朗らかに語っているのは、ジョアン・ジルベルトの元妻のミウシャ。
この映画が日本に公開するのを楽しみにしながら、彼女は201812月、他界しました。
ジョアンもまた、後を追うように私たちの世界を去りました。この映画の日本公開を知った後の76日のことでした。天国で、ミウシャとどんなことを話しているでしょうか。

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『ジョアン・ジルベルトを探して』(原題:Where Are You, Joao Gilberto?その1

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018    


  ジョアンの元妻、ミウシャ。
  ジョアンの家に自慢の料理を出前する料理人。
  行きつけの床屋の主人。
  旧友たち、マネージャー。
  ジョアンについて訪ねると、彼のつかみどころのない魅力を淡々と語ってくれる。でも誰一人として、「ジョアンに会いたい」というジョルジュ・ガショ監督の願いを叶えてはくれない。叶えられない。
  追いかけても追いかけても、その手をするりとぬけてしまう。しかし、彼は確かに存在する。
  ブラジルのまったりとした空気の中に、確かにジョアンを感じるのだ。
  音楽ドキュメンタリーというより、詩的な旅行記だ。サウダージが漂うブラジルの景色は美しく、彼がボサノバを生み出したと言われる小さなバスルームさえ、宝石箱のようにみえる。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018    


  ジョアンをミステリアスにしているのは、本人だけではないのだろう。彼を知る人たちもまた、ジョアンの孤独を大切にし、ジョアンの世界を守る要塞となっている。ジョアン本人の姿はまったく映らないのに、全編にわたりジョアンの息づかいが聞こえてくる。まるで幸せの呪文のように。

  けだるい夏から物思う秋へ……
  こんなとき、ボサノバを聴ける喜び。この映画と出会える喜び
  生きる喜びってこういうことなのだろう、きっと。


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ジョアン・ジルベルトへの思い その1

ジョアン・ジルベルトJoão Gilberto)への思い  その2

『イパネマの娘』(Garota de Ipanema

<公式サイト>

『ジョアン・ジルベルトを探して』

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018    


配給:ミモザフィルムズ

824()より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開